昭和49年07月30日 朝の御理解



 御理解 第20節
 「此方が天地金乃神よりおかげを受けておることを話にして聞かすのぞ。疑うて聞かぬ者は是非におよばず。かわいいものじゃ。また時を待っておかげを受けるがよし。めいめいに子を持って合点せよ。親の言うことを聞かぬ子が一番つまらぬ。言うことを聞かぬ子は、親もしかたがあるまいが。」

 教祖様が天地の親神様から、色々とお知らせを受けられて、人が助かる事の人が真実幸福になって行く事の為のお話をして下さる。それを伝えてお参りをする、御教えを頂く心が助かる、おかげを受けるそう云う事なんです。ですから教祖様のみ教えを、私共が頂いて、その頂いておかげを受けておる事実を、またそれを人に伝えていく。私今の丁度合楽の状態というのがここん所にある様に思うですね。
 それは合楽の生き方というか、合楽のおかげというか、又は合楽が天地金乃神様の御教え、お心を教祖金光大神が伝えられた、その伝えられたものを私が受けてそして、私がやや完璧なおかげにした。是はもう完璧と云う事は、到底私共は一生二生掛ったからて、出来やしませんでしょうけれどもまあ、やや完璧なものが出来た。言うならば神様の願いである所の、人間の幸せの条件と言うか、その幸せの条件というものが、どうぞ氏子信心しておかげを受けてくれよという。
 そのおかげというのは、第一にね心が助かると云う事。色々な矢張り問題がありますけれども、その問題がね問題である間はその人が助かっていない証拠です。そこに問題は起きてくるけれども、日頃教えを頂いておると、もう問題が問題でなくなって来るのです。そこに私は人間の助かりというものを感じます。いわゆる取分け人間関係の上におかげを頂いていくという信心要目にあります様に、人間関係の上にややこしい。
 例えば問題が起きて来る、これは人間関係問題では、人間関係だけの事ではありませんけれども起きて来る。けれどもそれをよくよく自分の所で、それを頂いて見ると、問題ではない神愛、神様のお心である事が分かって来る時に、今まで腹が立っておったり、情けないと思っておった事が、反対に有難い神様の御礼心とまでなって来るのです。そこに例えば争いのない、世界というものがある訳です。
 合楽教会を見てみますとです教会を中心として、ならまあここで信心の稽古をしばらくでもなさった方ならばです、問題がありますよありますけれども、お取次ぎを頂いてよくよく分からせて貰うと、問題ではないそれはおかげであるというふうに皆さんが、頂いて行っておられる、それが人間が助かると云う事です。同時に病気の無い世界、始めの間は病気なら病気と云う事からご神縁を頂いて、おかげを頂いてそれこそ病気災難は根の切れるまでという。根が切れる程しのおかげを頂いて表して。
 それを例えば、合楽教会にみるのです。言うなら大坪の家の家庭の上にそれを見るのです。はぁ成程金光大神の言われる事を、よく聞いて守っておかげを頂いていけば、ああ言う様にいうなら無病息災、人間関係の上にも問題が問題ではなくて、有難い物ばっかり次には貧乏の無い世界貧乏の無い世界というけど、なら合楽教会が沢山お金を持って居る事では無いですけれども。
 言うならば使うても減らぬ金百両という、言うならば限りないおかげの頂けれる、言うなら必要なだけは神様が不自由はさせなさらんという、おかげを受けて表しておると云う事なんです。そういうおかげがです完璧とまではいかんにしましても、頂いておるしかもです、信者の皆さんが受けておると。昨日は敬親会でしたから私は暫くお話をさせて頂いたんですけれども、敬親会の場合は何時もお茶やら、お茶受うけの方が先なんです。普通ではね普通の共励の会合の場合は、もう茶を飲む暇が無い位にあります。
 そこはお年寄りばっかりの会合ですから、まず銘々が持って見えておられる、いろんなもう、お饅頭とか、お豆さんとか、と色々いっぱい持って来ておられます。それを先ずお茶を頂いて、その饅頭を食べてしもうたりお豆を食べてしもうたりしてから、一辺それを下げさせます。してさぁなら今からこんだ話をさして聞いて貰おうというて、まあ話を聞いてもろうたり又皆さんの話を私が聞いたりする訳なんです。
 そこで私が皆さんにまあ申しましたんですけれども、今合楽で言われておるお互いの家庭に極楽を表すと、皆さんの場合なんかは先ず極楽に行っておられるですねと、第一もう着る事住まう事、食べる事と言う様なものに不自由なさっておられない。今見ておるともう豆も空になった、お饅頭も食べてしまいなさった、だぁれも一人でんもう私はもう見たばっかりで、もう胸が一杯になったちゅうごた人は皆んな食欲があるんです。
 昨日あそこ一杯に見えておるお年寄り方、皆んなきれいに食べてしまいなさいますです。何時でももう私はこの頃、ここが悪うしてからどんこん食べられん、ちいう人は一人もおらん。してみるとあぁた達の前には、美味しい百味の飲食があった様なものであって、これはならここだけではない、家に帰ってからでもお家でも、ご飯が美味しい頂けよんなさると云う事は、もうそれだけでも極楽ですよと、して見ると自分が極楽にある、おかげを頂いて子供達やら、家族の者が信心をしてくれるおかげで。
 年寄りもこんなに大事にして貰えておると云う事を。だから私は極楽と云う事は、ちゃんともうこう、蓮の花の花の台に座っておくと云う事が極楽じゃないです。あなた方の様な状態にある人達が極楽なんだと。ここまでお参りをもう言うならば七十にも八十にもなっておられる方がいくらもおられますけれども、皆んなここまでお参りがでけておられる。勿論自動車で送ってもろうたり、バスで見えたり又は近所の方なら歩いて見えておるけれどもですね、痛い痒いも無いほんとにおかげを頂いておられる。
 健康の上にもおかげを受けておられる。もう是も極楽ですというてまあ極楽の実証をですね、そういうて話すとほんなこてやっぱ私達は極楽ですね、と云う事になるのですけれどもおかげを受けておっても、極楽を極楽と感じきらないと云う事は、もうおかげが育たない事になるです。どうでもそのほんとに極楽のごとあるおかげを頂いて、というて喜ばして貰わにゃいけませんねというお話をしました。
 ですから先ず極楽の認識です。極楽のおかげを受けておるという、ですから金光様のご信心は、只極楽にいっとる自分だけがおかげ頂いとる、というだけではおかげにならない。それが極楽から合楽になっていかなければいけない。合楽と云う事は自分が助かるなら、人も助かる自分が助かっておると云う事が、そのまま天地の親神様の助かりに。がらなければいけない。そこに親も助かり子も助かり、神も助かり氏子も立ち行くと言う様なおかげになって来るんです。
 だからこれが。合楽のおかげになっていかなければならないと云う所を、今日私はご理解二十節から感じるのです。だから皆さん先ずはね、自分達がおかげを受けておるという、自覚に立たなければ。私は今日私の婆になります、九十三歳で亡くなりました。この婆が金光様のご信心の一番初めの元を、言わばとってくれた人なんです。久留米に布教所がでけた、石橋松次郎という先生が見えたと、六つ門に仮のお広前がでけあった。そこを間借りしてからのまあ、布教でおありになったそうです。
 そん時にご神縁を頂いております。してみると合楽教会の端を発するというですか、一番大元をとってくれた人なんです。ですから大体は先月でしたけれども、今日は私の弟が亡くなりました帰幽日になるのです。戦死致しました弟のこれは式年と云う事じゃありませんけれども、帰幽日ですから毎年ささやかな霊祭をさして貰うのですけれども、その弟の帰幽戦死と云う事が私にです。私にもう一大変革を信心の上で与えてくれたのが弟です。弟の戦死と云う事はそんなに私の信心に重大な意味を持っておるです。
 言うならばそういう合楽の信心の元を取ってくれた婆、私の信心に一大革命というか、変わり方を示してくれた弟、ですからその弟の帰幽日に、ばばの三十五年の式年祭をさせて頂くと云う事に、まあ致しました訳ですけれども実をいうとです。ここに合楽の教会長大坪総一郎の所に。沢山な人が集まって、今私が申します、皆さんも極楽に行っておられるんですよと、いう認識を私は促す様にです、今日は合楽の教会にです。ご神縁を頂いておる、そしてそれに係りのある御霊の全ての御霊様にです。
 今日は極楽のあなた方は極楽に行っておるんだと、いうならば合楽で私がおかげを頂いて、御霊の世界に極楽の世界を開いておる。そこに集まって来る人がです、甘いものが欲しい方には甘いもの、辛いものが欲しい人には、辛いものを与えられるだけのものを頂いておるから、真実あなた方がおかげを受けておるんだけれどもです。自分が極楽に行っておるという自覚が無い。
 そこで極楽宣言を今日はさして頂くと言う意味で、今日の霊祭は大変有意義のある。霊祭だと私思うております。どういう風に御霊様の喜びを表されるだろうかと、楽しんでおります。はぁほんに親先生の話を聞かせて貰うと私も。私は極楽に行っておるたいと水が飲みたいと思うても水も飲まれん、甘いものを食べたいというても、甘いものも食べられない。はぁ今日だんいっちょお神酒を頂こうかと思うても、お神酒のだんじゃないと言う様な御霊も沢山おる中にです。
 合楽にね子供達が縁を頂いておっておる、くれておるおかげで、そういうおかげに潤うておると云う事だけでも、始めて気が付いた極楽の認識がでける、そういう意味においての、極楽宣言なんです。それでも言うならばです、そげん言うたっちゃ私どんはまだ極楽に行っとらんという人は、言うなら今日の所でいうと言うて聞かしても分からん子は、親でも仕方があるまいがと云う事になる訳なんです。
 なら私が皆さんに聞いて貰っておるお話でもです、まだ家には借金がこうあってまだ家には病人がおるからとけれども。あなたの心は御教えを頂いて助かっていきよろうが助かとろうがと云う事なんです。例えばなら病気をしておりますけれどもです、それは病気だけれどもさっきのお話じゃないけれども、是は病気という名の私で言うならば糖尿病という名の、神様のご都合だと頂いておるからもう病気は無いのです。今まだ借金を持っておると言うてもです、こりゃ合楽教会でも同じ事借金を沢山まだ持っておる。
 けれども借金を持っておると云う事ではない、もう神様が払うて下さるものですから、自分に一つも頭が重くない、そしているだけの事は、払わなければならない事だけは、ねいつも綺麗に払わせて頂けておると云う事はです、もう貧乏していないと云う事です。それに借金を取ると頭が痛い、うちんなかに病人がおるともう、それを病人と思うとるから頭が痛い。その病気をいかに、その例えばここになら、久富さんが居られますから、久富さんのお宅に例えば、病人があるとするならばです。
 この様にして神様がです、めぐりの御取払いを下さってあるんだ、家の病気災難の、根を切っておって下さるんだ、と云う事になったらそれは病気じゃない。なんなんという名の神様のご都合と云う事になるのです。信心はだから悟りと言われるのもそう云う所なんです。してみると合楽にご神縁を頂いて居る人達は、もうすべからく極楽にあると云う事。言うならば、極楽に一歩足を踏み込んでおると云う事。
 これを進めてさえ行けば。これをお育て頂きさえすれば、極楽の真ん中にも座る事が出来るんだ、と言う事なんです。そういうおかげを合楽の人達は頂いておるんだと、その合楽のご信者さん方につながる所の。みんなの御霊様もやっぱし同じだと云う事をです、今日御霊様達に、その事の宣言をさせて頂きたいと。思うております。だから皆さんにも矢張りです、私がこうやって聞き言うてもです、ほんとに親先生の言われる通り、例えばら久富さん辺りの様に、夫婦が例えば病人であんなさる。
 それを病人と思えばです、矢張り極楽ではないのですけども段々お話を頂いておる、ほんとにこの病気のおかげで信心がでけます。この病気のおかげで、久富さん場合のなんかは、久冨一門のめぐりと仰るからね、だから久冨さん達の関係や、もう勇さんにそれこそもうほんとに平身低頭ほんとにあんたげにばっかり、ご苦労かけてすいません、というものがなからなければいかんですよ。
 例えば私の方が、もうこれより以上の貧乏はあるまい。その中に病人が家の中にゃ何時もある、という時には、大坪一門のめぐりの御取祓いを。私が頂いておったから、大坪一門がみんな助かっているんです今。ですから私ども夫婦が、こうやって修行させて頂いておりますおかげで。久冨一門のめぐりのおとり祓いも頂けておると云う事。だけではないその病気のおかげで。私共夫婦が普通ではとてもとても、出来やせん信心が、出けております、と云う所に極楽があるでしょうが。
 こん病気のおかげでなんですから、はあじゅつないこっじゃある、この病気と言うとらんのだから、じゅつない事だと言う所には、極楽は無いです。そういう意味においてです、例えば私が皆さんに、皆さんはおかげを受けておる、そのおかげをおかげとして、そのおかげを育てていくと云う事にです専念するいや、そういう生き方であれば神様が、おかげはいやが上にお育て下さるんです。
 けれども自分の様な不幸せなもんはおらん。自分のごた難儀な者はおらんと思うから、もうそのおかげそのものが、死んでしもうとる。おかげを殺しておる自分の心で、だからおかげがおかげとして育たんのだと、本当に早く極楽の自覚に立たなければいけないなと云う所に、感謝感激というものがあるのです。その感謝感激におかげはいよいよ、いやが上にも育っていくのです。
 けれどもねなら私がこう言うても、言うて聞かせても、それを聞かなければ仕方がないというのです。そこで皆さんが、おかげを受けられたら、いわゆる合楽の、言うなら宣伝時代と最近私は言うておりますけれど、二十五年間という間はです、なら人に宣伝するだけの内容というものが、まだでけていなかったけれどもね。合楽に極楽を表し、いやそれ以上の合楽を表す事が出来る程しのです、おかげを段々頂いて来た、その事実をみんなに見てもろうたり、聞いてもろうたりしてです、合楽を宣伝しなければいけない、その宣伝を只するだけでよいのです。
 そして言う事を聞かん者は仕方が無いのです。その宣伝に、例えば乗ってくるというか、聞いて、そんならいっちょ私も一辺、合楽に連れて参って下さいと言う事になって来る時に、そこに神の喜びを感じます。今の合楽はそう云う所にあるのです。だから自分のもう、関係のあるかぎりの人にです、もうとにかく合楽に一辺参ってみなさい、有難いですよと、また自分自身の助かっておる事実を聞いてもろうてです、又は合楽で表しておる所の、おかげを聞いてもろうてです。
 また合楽のたたずまいていうものをみんな見てもろうてです、極楽と言うところはこう言うところであろうかと言う様なものをです、見て貰いぎに来て貰わにゃいかん。それには誰も知らんものは知らんのですから、知らん人達に伝えていかなければならない。と言う様な事をです私は今日二十節から感じましたから、そこのところだけをまあ焦点にして今日は聞いて頂いたんですね。神よりおかげを受けておる事を、話にして聞かすのぞと云うところなんです。
 私は神から、おかげを頂いておる事を、皆さんに話にして聞かすのぞ、けども云う事を聞かん子は、親でも仕方があるまいがと。皆さんに極楽宣言をしましても、いんや自分方は極楽じゃなかち、言うならもうそれまでの事なのだ。ほんとにお話を頂けば頂くほど、おかげ頂とるな、信心させて頂いてもう五年になる、十年になる、十五年になる、という方達ばっかりである。
 皆んなそういう人達が考えてみると一番初めに、お参りをしよった時分の事から思うて見てです、年年歳歳おかげを受けて来ておる事実をです、思うたらはぁこれが愈々極楽の真ん中に進んで行きよるんだと、思わして頂いてその事を私は人に伝えていく、宣伝していかなければいけません。そしてそれを聞かんもんは仕方が無い、それを聞いてならお参りをするという人が出来ること、その事が私は神様がお喜びだと思うですね
   どうぞ。